玉子

 

 昭和三十一年に四人兄弟の末っ子として偉大なるワタスは生まれる。当時はまだ日本国中貧しくて、我が家も例外ではなかった。長男が栄養失調で入院した。その後を追うように、次男、姉と次々に入院。そのヒサンな状況下で、何故か次男も姉も入院を喜んだと云う。病院の食事に生タマゴ がつくからである。長男の入院でそれを知った二人は、入院したくてたまらなかったらしい。その願いが叶ったのだ。

 タマゴがようやく庶民のものとなったのは、昭和四十年頃だったろうか。我が家のタマゴ信仰は根強く、元気の源として、勿論ワタスにも受け継がれた。運動会や学芸会そして受験の朝には欠かさず、生タマゴのぶっかけ御飯を食べた。

 丁度十年前に長男が入水自殺でこの世を去った。享年34歳。日本全国の飯場を渡り歩いて、ようやく田舎に落ち着き暮らし始めて、5年も経った頃のことだ。自殺の前年に休みを利用して東京に出てきている。ワタスが正月に帰省したおり、「何をしに東京へ行ったんや?」と聞くと、「吉野屋の牛丼が食べたくなったんや。田舎にゃ吉野屋ないからなあ」と、とぼけた答えが返って来た。死後、彼の残した手帳を開くと浅草を一日うろつき、確かに吉野屋で牛丼を食べている。それから何故か、大井埠頭へ………。

 彼はその日死ぬつもりだったにちがいない。東京の海なら身元不明の無縁仏になれると確信したのだろう。しかし彼はその時死ねなかった。恐らく彼の誤算は、吉野屋で牛丼を食べたことにある。しかも、彼は絶対に生タマゴを入れているに違いない。そんなアホなと思われるかも知れないが、ワタスには、わかる。死ぬ覚悟は、吉野屋を、出た時から少しづつ鈍り始めていたに違いない。それがタマゴを活力源として信仰してきた岡田家の血なのだ。

 ううーん、近頃新鮮なタマゴを食していないせいか、ワタスの思考力も鈍りぎみ、ひだり、ぎみ、ひだり……何を言ってるんだワタスは。   

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